LOGIN直人が帰ってきたのは、紬が眠った後だった。
朝起きると、玄関に脱いであった靴は揃っておらず、食卓にはコンビニの袋が置かれていた。中のプリン2個はぬるくなっていた。
「冷蔵庫に入れておけばよかったのに」
紬が寝室のほうを見ながら言うと、直人がシャツの袖に腕を通しながら出てきた。
「忘れてた。帰り道に思い出して買ったんだ。好きだろ、それ」
好きだった。仕事帰りに駅前で1つずつ買って食べていた頃がある。直人は今も同じ味を選び、紬は喜ばなければいけない気がして、袋をたたみ、キッチンに置いた。
「昨日、遅かった?」
「うん。社長が二次会まで行こうって」
「原稿は見た?」
「見たよ。よくできてた」
その言葉を聞いて、紬は食器棚の扉を閉めた。お湯を沸かそうとしていたところだった。昨夜直した場面のどこがよかったのか聞こうかと思ったが、先に直人がスマートフォンを見せてきたので、そちらへ寄った。
真帆からのメッセージだった。
最後の傘の場面、よかったです。この流れなら次回の最初の場面も自然につながりますね。
「ほらな。告白は少し延ばそうって言っといてよかった」
直人はメッセージを上へ送って読みながら言った。紬は画面から彼の顔へ目を移した。
「延ばそうって言ったのは私……」
「だから。君の話を聞いて、俺がそっちに決めたんだろ」
やかんが沸き始めた。直人はもう話すことはないとでもいうように、カップを取り出した。紬がコースターを差し出す間も、メッセージの画面を見ていた。
「来週は中に入って、抱きしめるところまでいけばいいな」
「まだ、あの女の人には言いたいことがあるよ」
「それは抱きしめてからでいいだろ。うちの読者、こういうのを長く引っ張るのは嫌いだし」
紬は沸かしたお湯をカップに注いだ。直人が口をつける前に少し引き寄せ、持ち手を回した。彼が右手で持ちやすい向きだった。
「女の人は、嫌だとは言ってないの」
紬は言った。
「前の回では、1人になりたいって言ったでしょう。少しの間、1人で気持ちを整理する時間が欲しいって。それなのに、戻ってきた人が自分の言いたいことから話しちゃったら……」
「わかった、わかった。じゃあ、考えてみてよ」
直人は笑ってカップを持ち上げた。ああして笑って話を終わらせようとする顔を見ると、紬は次の言葉を選んでしまう。これ以上説明すれば、朝からわざわざけんかを仕掛けるのは自分のほうになる気がした。
「今日は打ち合わせで遅くなるから、お昼は先に食べてて」
「私、今週は少し休んじゃだめかな?」
直人がカップを置いた。
「どこか具合悪いの?」
「そうじゃなくて。自分のを少しやってみたくて」
「自分の作品?」
「前に描いてた短い話。いくつかたまったから」
「今?」
彼が時計を見たので、紬もそちらを見た。約束の時間に遅れているわけではなかった。まだ30分もある。
「今のシーズンが終わってからでもいいだろ」
「シーズンが終わったら単行本の修正があるじゃない」
「それはそんなに量ないよ」
前にも同じ答えを聞いた。量が多くないと言われた修正に3週間かかり、終わると次のシーズンの予告編を作った。紬はそう言おうとして、カップに残った水を見た。直人はもうコートを手に取っていた。
「帰ってからまた話そう」
ドアが閉まった後、紬は彼のカップを片づけた。プリンを冷蔵庫に入れながら賞味期限を確かめる。蓋の小さな文字がよく見えず、キッチンの明かりをもう1つつけた。
初めて彼が買ってくれたプリンは、一晩放っておかれたりしなかった。
あの頃はお互いの分を奪って食べようと、プラスチックのスプーンを手にふざけ合った。
結婚して2か月ほどたった頃だった。
2人の住んでいた家には、机を並べる場所がなかった。直人が机を使えば、紬は低い食卓で絵を描き、食事のたびに紙とペンを窓辺へ移した。
直人はデビュー短編で注目を集め、初めての長編を準備していた。契約の話が出てから、かえって作業は進まなくなった。きれいに描けた絵を消し、たばこを吸いに出て、戻るとまた同じ顔を描いた。
「顔はうまく描けてるのに」
紬が机の後ろから言うと、彼は笑いもせず答えた。
「顔しかないだろ」
画面には整った顔立ちの男が立っていた。どこから来たのか、誰を待っているのかもわからない男だった。紬は隣に座る椅子を探し、ベッドの端に腰を下ろした。
「今日はもうやめよう。一緒に何か食べようよ」
「契約、なくなるかもしれない」
「まだ決まったわけじゃないでしょう」
「向こうが待つのにも限界があるよ。もう2回も延ばしてもらってる」
紬は膝の上で手を重ねた。自分に手伝えることを見つけたかった。話を1つ切り出しかけたが、今そんな助言をされても、かえってつらいだろうと思い、のみ込んだ。
直人が先に紬のスケッチブックを指した。
「何をそんなに描いてるの?」
「ただ、思いついたもの」
「見てもいい?」
紬は食卓からスケッチブックを持ってきた。人物紹介も企画意図もなく、思いつくたびに短く描いた場面ばかりだった。バスの中で見かけた子ども、雨が降るとビニールをかける市場の屋台、いつも遅くまで明かりの消えないクリーニング店が、それぞれ別の紙に描かれている。
直人は1枚ずつめくり始めた。彼が長く手を止めたページで、紬は思わず手を伸ばした。
「それ、まだ続きがないの」
「続きがないとだめ?」
「え?」
「このままでもいいよ。ここで切れるから、次を考えたくなる」
彼は紙の一角をとんと指でたたいた。紬が何気なく描いて、消そうと思っていた部分だった。1人で見ているときには何とも思わなかった絵が、彼の指の下で少し違うものに見えた。
「どうしてこういうの、公開しないの?」
「描き終わったものがないから」
「前にもそう言ってた」
その言葉に紬は笑った。付き合っていた頃、直人は紬が短編を投稿していたアカウントをフォローした。新しい絵が上がると自分にも通知が来るからと、ほかの人のコメントがつくより先に、必ずメッセージを送ってきた。
今日のは3コマ目がよかった。
前のコマにいた人が振り返ると、また違った感じがする。
この人、また出てくる?
どこがよかったのかを言ってくれる人だった。紬はその質問に答えようと、いつもより1枚多く描くこともあった。
直人がスマートフォンを差し出した。古いフォロー一覧に、水凪の名前が表示されていた。
「今も待ってる読者がいるよ」
紬が彼を見ると、直人は自分を指さした。プリンの蓋を指で押さえたまま肩をすくめる姿がおかしくて、紬もとうとう笑ってしまった。
その夜、直人は紬のスケッチブックを机の横に置いた。何度も振り返っては、見てもいいかと許しを求めるように顔を上げるので、紬はうなずいた。
長編の最初の提案は、そこから始まった。
紬は自分が集めていた話をつなげてみた。短い場面にしかいなかった人物に、暮らす町と古い友人を与え、2人が一緒に座る家を描いた。明け方まで1枚を直し、翌日、その続きを描いた。
直人は隣で絵を見ながら言った。
「こういうふうに進めればいいんだな」
数日後、担当者から返事が来た。この企画で一度会いたいという。直人はようやく大きく息を吐き、紬を抱きしめた。
「本当にもう終わりだと思った」
紬は彼の背中に手を置いた。よかった、よかったねと、そんな言葉ばかり何度も繰り返した。彼がもう一度自分の絵の前に座れるなら、少し手伝うことくらい何でもなかった。
ところが、顔合わせを前にファイルを整理していた直人の手が止まった。
「これ、どう説明したらいいんだろう」
「私が一緒にやったって言えばいいじゃない」
「契約するのは俺って話になってるから。今になって作者が変わるって言ったら、最初から見直さなきゃいけないかもしれない」
紬は紙をまとめていた。直人は担当者に送るメールを何度も書き直し、紬の名前を入れた文を消しては、また書いた。彼のデビュー作を好きだった人たちや、次の作品を待っているというコメントが、紬の頭に浮かんだ。
「今回はあなたの名前で出して」
口にすると、思っていたより簡単に聞こえた。
直人はすぐには答えなかった。紬は言葉を足した。
「あなたがまた描けるようになるまでだけ。私が隣で手伝うから」
「紬」
「その代わり、私のも見てね。いつも最後まで描けないから」
彼はうなずいた。紬の紙を受け取りながら、その手の甲を一度なでた。
「もちろん。次は君のをやろう」
紬はその約束を信じた。あの頃は、自分の作品を作るという言葉の中に、直人が隣に座っている姿も含まれていた。
冷蔵庫が低くうなった。紬は開いた扉を閉め、食卓の下に転がったプリンのスプーンを拾った。持ち手を包むビニールはそのままだった。使わなかったスプーンを引き出しに入れながら、古い資料をまだ持っていたかと考えた。
仕事部屋の一番下の棚に、小さな外付けドライブがあった。ケーブルをつなぐと、以前のパソコンから移しておいたフォルダーが現れた。卒業制作、結婚式の写真、引っ越す前の家の写真。整理する時間がなく、日付だけつけておいたフォルダーも多い。
紬は初めて企画書を作った年のフォルダーを開いた。中には直人が使っていたファイル名と、紬が使っていたファイル名が混ざっていた。同じ話の冒頭を少しずつ違うように描いたコピーもある。
1つを開くと、絵より先に当時のメモが見えた。
ドアが閉まる音は次のコマに。
顔より先に手。
今も好きな流れだった。紬はモニターを近くに引き寄せた。10年前の自分がどこで迷い、何を削りたかったのか思い出せた。あの頃は物足りなく見えた線も、今見ると必ず消さなければならないものではなかった。
昼に直人から電話が来た。
「ご飯、食べた?」
「これから食べるところ」
「さっきやりたいって言ってたの、どのくらいかかるんだ?」
紬は開いたファイルから目を離さなかった。
「そんなに長くはかからないよ。短い絵だから」
「じゃあ、空いた時間にやればいいな」
「あなたの原稿と重ならない時間を決めたいの」
「会社に勤めてるわけでもないのに、そこまで決めなくたって。そのときどきで合わせればいいだろ」
紬はマウスから手を離した。
「最初は、少しの間だけ手伝うって約束だったよね」
受話口の向こうが少し静かになった。周りの話し声が遠ざかった。直人が場所を移したらしい。
「今さら、どうしてそんな話をするんだ?」
「そんな話じゃなくて、私も……」
「俺たち、他人じゃないだろ? 俺が外で仕事をして、君は家で一緒に作ってる。今までそれでうまくやってきたのに、急に少しの間だなんて言われても、俺もどう受け止めたらいいかわからないよ」
彼の声は大きくならなかった。だから紬も小さな声で言った。
「うまくやれてるのか、わからなくて」
「また考えすぎだよ」
直人は夜に話そうと言って電話を切った。紬はしばらくスマートフォンを置けなかった。同じ言葉を2度聞いたのに、夜になればちゃんと話せるような気がした。
画面には最初に提案した原稿が表示されていた。表紙の下へ少し送ると、文字の部分を覆う白い帯が見えた。当時は紙の色と同じだったはずだが、画面を変えた今は、縁がかすかに見分けられた。
紬はそれを消さなかった。
拡大して眺め、修正しないままファイルを閉じた。
フォルダーには日付が残っていた。また描けるようになるまでと言った年だった。
フォルダーのウィンドウを閉じても、紬は食卓へ向かえなかった。夜にまた話そうと言った直人の声が耳に残っている。
また描けるようになるまで。その約束をしてから、もう10年がたっていた。
紬が目を開けると、廊下の先に夫の靴が見えた。昨夜は帰ってくる音を聞かなかった。ドアを開けたままの小さな部屋で体を起こすと、リビングにいた直人がシャツの袖を引きながら尋ねた。「昨日、電話してたね」「うん」紬はベッドの縁に腰掛け、床に足を下ろした。直人が部屋の入口に近づくと、膝に置いていた手を開いた。「昨日、病院に電話したの。食事もあまり取れないし、体が……」「病院は何て?」「様子を見て、また連絡するようにって。でも、一人だと……」直人のスマートフォンが鳴った。彼は画面に目を落とした。「ちょっと待って。もう車が来た」シャツのボタンを留めかけの手で電話に出て、スマートフォンを肩と耳の間に挟んだ。「はい、今下ります。5分で。資料は持っています」紬はスリッパを履いた。電話が終わるまで待っていたが、直人は折り畳んだイベントの資料を先に鞄へしまった。7月9日、水曜日。用紙の一番上には、今日の日付が大きく記されていた。「授賞式は夜じゃないの?」「昼から撮影と対談の準備もあるんだ。今日、終わったら連絡する。打ち上げもあるから」「遅くなるって言ってたね」直人は鞄を持ち上げながら、妻のコップを脇へ押しやった。「ちゃんと食べておけよ。昨日頼んだもの、残ってるだろ」「さっきの話、帰ってきたら聞いてくれる?」「あ
直人は引き出しを開け、ネクタイを探していた。必要な色を言わず、あのとき締めたものとしか言わないので、紬にはどれを指しているかわからなかった。リビングから戻った彼がシャツをベッドに広げると、袖口が彼女のバッグに引っかかった。「検査に行くときのバッグ、別のところに置けない?」紬はバッグを椅子の横へ移した。中の書類は取り出さなかった。前日に診察を受けて帰宅し、入れておいたままだった。7月8日の朝だった。直人は翌日の授賞式の動線を確認しながら、今日もリハーサルと関係者との約束があると言った。紬が食卓に置いた水の入ったコップを持つと、彼は遅れて彼女のほうを見た。「明日は行けそう?」「行けないと思う」「まだそんなに具合が悪いの?」「うん」直人はそこでようやく、しばらく彼女を見た。紬はカップを食卓に置いて待った。どこがどんなふうに悪いのか尋ねられたら、前日に聞いた話から伝えればいいと思った。「じゃあ家で休んで。イベントが長引いたら座っているのもつらいだろうし」彼は出席者を確認する画面に戻った。家族席に名前を書く欄が見えて、消えた。紬は誰に連絡しているのか尋ねなかった。自分が行けない席に別の人を座らせることまで確かめたくなかった。「夕食は?」「今日は外で食べる。明日も早く帰るのは難しいと思う」紬はうなずいた。夫はまたネクタイについて尋ねた。彼女が知っているのは、引き出しのどの段にネクタイが入っているかまでだった。「一番下の段にあるよ。そこで探して」直人は引き出しを強く閉め、また開けた。しばらくして見つかったとも言わず、スマートフ
青い印のついた原稿を数えながら、紬は17番目で手を止めた。前に数えた束をもう一度数えていた。紙をすべて床に広げれば一目で見えるだろうが、かがんで立ち上がることを何度できるかわからなかった。彼女は机の上に5編ずつだけ置くことにした。順番を決めた束は左に、まだ確かめていないものは右に置いた。原稿を整理する方法まで、昔と同じである必要はなかった。6月29日だった。窓の外ではエアコンの室外機の音がずっと聞こえていた。紬は風が直接当たらないよう椅子の向きを変え、真帆から受け取った撮影データを開いた。紙に残った場面と画面に表示された場面を並べて確認できた。6月も診察は続いた。治療を受けた後に体調が悪くなって次の投薬を調整したこともあり、食事が難しかったり痛みが強くなったりして予定の外来より先に連絡した日もあった。紬は調子のいい日にできることをまとめて終わらせようとし、翌日ほとんどベッドから起きられなくなってからは、時間を短く分けた。今日は午前中に原稿の前半だけを見るつもりだった。真帆と会う午後までに全部終えなければならないとは、誰にも言っていない。立ち上がって休んでいる間は、作業一覧の印が増えなくてもよかった。最初の束を開くと、雨上がりのバス停が出てきた。女が濡れたベンチの一席を拭く最初のコマだった。紬はその絵を前にして、しばらくほかのページをめくらなかった。見慣れた場面の始まりと、自分の名前が同じ一覧に書かれていた。その後に入れる原稿は一度には決めなかった。カップを洗いながら窓のほうを見る女の話は少し前に、降りる場所を通り過ぎて花屋に入る話はその後に置いた。1人でパンを食べる女と服を選ぶ女が続くと、2編の間に別の季節の場面を挟んだ。女が同じ場所に立ち止まったままの人として読まれてほしくなかった。戻り、出かけ、何もしない日もあったのだから。紬は新しいセリフを書く代わりに、すでに描いた場面の間隔を見た。数年前に描いた紙には、当時の日付が余白に残っていた。最近1コマを変えた原稿もあった。紬は修正した日付と変えた部分を作業一覧に書き足した。元の絵と修正後の絵を同じファイルだと取り違えないよう、真帆が求めた印だった。病院へ行った日の場面は、その日以降に描いたものだった。春に書き留めたメモをもとに、後から構図を直した場面には、その時期も残した。紬は実際に経験したことと
5月7日の午後、紬は入院用バッグを横に立て、改めて診察を待った。朝に予定していた手続きは変わっていた。体の状態を診てもらい、必要な処置を受け、次の診察を決めるまで、バッグは椅子の横に置いたままだった。職員が予定を確認しながら尋ねた。「次はこの時間に来られますか?」「はい。来られます」紬は手帳に日付を書き、新しい予約を確認した。翌日また病院へ行き、その後の調整を経て5月12日に入院した。荷物を解くと、バッグからしわになった案内が出てきた。先週使うはずだった紙だった。彼女は捨てずに別の書類の下へ入れた。入院中の一日は、検査と診察の時間に合わせて流れた。その合間はベッドに横になって休んだ。直人からファイルの場所を尋ねられると、フォルダーの名前だけを答えた。いつ家に帰るのかという質問には、退院の日はまだわからないと言った。病院でパソコンを使えるかという問いには、答えずにおいた。医師は病気が胃の外まで広がっていると説明した。手術ですべてを取り除くのは難しい状態で、薬物治療を含めた可能な方法を検討しなければならなかった。紬は説明を聞きながら手帳を開き、ペンを置いた。今回はすべてを書こうとせず、先に耳を傾けた。「それでは、手術はしないんですか?」「今確認できている範囲では、手術で取り除く治療を優先するのは難しいです。病気の進行を抑える治療を検討しながら、食事の問題や痛みも併せて調整する必要があります」「何もできないわけではないですよね?」医師は、今できることと、体の状態に合わせて調整すべきことを分けて話した。紬は治療を受けたいと答えた。可能ならいつ始められるかも尋ねた。入院中は、食べられる量や不快な症状を伝えることも治療の一部だった。痛みが少ないと答えれば早く家に帰れる気がして、ついそう答えそうになる癖が残っていて、看護師に尋ねられるたびに紬は少し考えなければならなかった。いつ痛みが強かったか、食べた後に何がつらかったかを話すには時間がかかった。それでも、その言葉を書き留める人がいた。退院の会計をしながら、紬は自分の口座の残高を確認した。個人原稿の前払い金が入ってから初めて支払う入院費だった。金額を確認して支払い、残ったお金で次の診察と移動に使う費用を計算した。家に生活費がいつ入るのか直人に尋ねる必要が減った分、自分の予約を先に書き込めた。退院時に
5月7日の朝、旅行用バッグは玄関に置かれていた。紬は病院から持参するよう言われた書類を確認し、スマートフォンにタクシーの配車画面を表示した。まだ呼び出しボタンは押していなかった。後ろから直人が紙を1枚差し出したからだった。「これ、1行だけ見て」紬は時刻を確かめた。8時55分だった。「もう出ないと」「病院は10時だろ。読むのに1分もかからないよ」彼が持ってきたのは祝いの動画の台本だった。先週資料を送った後、追加撮影用にもう一度直してほしいと依頼が来たという。紬が書いていない文が途中に入っていた。古い原稿から人物のセリフを抜き出し、作家自身の経験であるかのようにつなげた部分だった。「これ、登場人物が言った言葉でしょう」「だからちょっと変だなって。俺が言ったことみたいに変えられない?」「削ればいいよ」「削ったら前の動画と合わないって言ってるだろ」直人は紙の向きを変え、紬のほうへさらに押し出した。紬はスマートフォンを食卓に置き、削る文に印をつけた。出発を遅らせずにできる最後のことだと思った。線を引くと直人は、その後に続ける言葉を尋ねた。「それはあなたがやって。考えてあるんでしょう」「今のまま渡せってこと?」紬はペンを置いた。直人は撮影担当者に電話をかけ、30分以内に送ると言った。紬にできるかどうかも聞かずに交わした約束だった。通話が終わるのを待って紬がバッグを持つと、彼は小さな部屋を指した。「原稿も一緒に開いて見ないと。場面の順番が変わったから」「今日はできないって言ったよ」「入院してもすぐに何かするわけじゃないだろ。受付が少し遅れるだけじゃないの?」「あなたが決めることじゃない」声が大きくなると、直人はリビングの窓のほうを見た。外で聞く人を意識するその動きのせいで、紬は思わず抑えようとした声を、そのままにした。「病院に行かないといけないって、何度言ったと思う? 日付も2回変えたの」「だから今日終わらせてから行けばいいだろ」直人は同じ説明を繰り返しながら、撮影担当者にまた電話をかけた。通話が終われば出かけられると思ったが、終わるたびに別の紙を差し出した。小さな部屋の机には前日に印刷した場面が残っていた。紬は夫がそれを口実にまた引き止めないよう、確認の終わった紙だけを手に取った。パソコンをつけて新しく直すつもりはなかった。リビング
紬は返してもらった封筒を机の引き出しの奥に入れた。真帆が保管する原稿の一覧には、その封筒は載っていなかった。一覧を折ってファイルに挟んでも、机の上にはまだたくさんの紙が残っていたので、すぐに必要な病院の案内からバッグに入れた。4月16日の診察には、予約の時刻より少し早く着いた。前の検査資料がきちんと届いているか確かめて座っていると、看護師が最近の食事の量を尋ねた。紬はちゃんと食べていると答えかけ、前日に食べたものを順に話した。口にしてみると、自分で思っていたより少なかった。診察室では検査結果と体の状態を一緒に見た。医師は病気がどこまで広がっているかさらに確認し、治療計画を決めるために入院して評価を受けるよう勧めた。食べる量が減ったことも併せて調べる必要があった。「何日くらいと考えればいいですか?」「検査やお体の状態によって変わることがあります。まず入院して必要な評価を行い、計画をご説明します」紬はカレンダーを開いた。医師が待ってくれる間に、画面に夫の予定が表示されたので、自分の予約を書いた小さな手帳を別に取り出した。4月23日の横には何も書かれていなかった。「その日にしてください」彼女は日付を書き留めた。病院では、それまでの間にも症状が強くなったら、予定日を待たずに連絡するよう言われた。診察室を出ると、真っ先に来週の原稿のことが浮かんだ。紬はメッセージ画面を開こうとした手を止め、入院の持ち物の案内から読んだ。足りないものを書き留め、薬局に寄ってから家に帰った。直人に日付を話したのは、その日の夕方だった。彼はモニターから目を離さず、どのくらいかかるのかと尋ねた。「まだわからないの。検査ももっと必要だし、治療の計画を決めるって」「じゃあ、検査にどれくらい時間がかかるかもわからないの?」「やってみてから決めるんだって」紬はバッグから案内を出し、食卓に置いた。直人は紙を読む代わりに、メッセージで届いた修正依頼を確認した。来週までに渡さなければならない原稿に問題が出たという。登場人物がけんかする理由がわかりにくいという意見だった。「その部分は俺も手を入れてみたんだけど、前後がまた合わなくて」「今回はあなたが整理しないと」直人は笑うように口元を動かした。「急に君が抜けたらどうするんだよ。休むにしても、渡すものは渡してから休まないと」入院して







