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2話 また描けるようになるまで

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-28 18:56:39

直人が帰ってきたのは、紬が眠った後だった。

朝起きると、玄関に脱いであった靴は揃っておらず、食卓にはコンビニの袋が置かれていた。中のプリン2個はぬるくなっていた。

「冷蔵庫に入れておけばよかったのに」

紬が寝室のほうを見ながら言うと、直人がシャツの袖に腕を通しながら出てきた。

「忘れてた。帰り道に思い出して買ったんだ。好きだろ、それ」

好きだった。仕事帰りに駅前で1つずつ買って食べていた頃がある。直人は今も同じ味を選び、紬は喜ばなければいけない気がして、袋をたたみ、キッチンに置いた。

「昨日、遅かった?」

「うん。社長が二次会まで行こうって」

「原稿は見た?」

「見たよ。よくできてた」

その言葉を聞いて、紬は食器棚の扉を閉めた。お湯を沸かそうとしていたところだった。昨夜直した場面のどこがよかったのか聞こうかと思ったが、先に直人がスマートフォンを見せてきたので、そちらへ寄った。

真帆からのメッセージだった。

最後の傘の場面、よかったです。この流れなら次回の最初の場面も自然につながりますね。

「ほらな。告白は少し延ばそうって言っといてよかった」

直人はメッセージを上へ送って読みながら言った。紬は画面から彼の顔へ目を移した。

「延ばそうって言ったのは私……」

「だから。君の話を聞いて、俺がそっちに決めたんだろ」

やかんが沸き始めた。直人はもう話すことはないとでもいうように、カップを取り出した。紬がコースターを差し出す間も、メッセージの画面を見ていた。

「来週は中に入って、抱きしめるところまでいけばいいな」

「まだ、あの女の人には言いたいことがあるよ」

「それは抱きしめてからでいいだろ。うちの読者、こういうのを長く引っ張るのは嫌いだし」

紬は沸かしたお湯をカップに注いだ。直人が口をつける前に少し引き寄せ、持ち手を回した。彼が右手で持ちやすい向きだった。

「女の人は、嫌だとは言ってないの」

紬は言った。

「前の回では、1人になりたいって言ったでしょう。少しの間、1人で気持ちを整理する時間が欲しいって。それなのに、戻ってきた人が自分の言いたいことから話しちゃったら……」

「わかった、わかった。じゃあ、考えてみてよ」

直人は笑ってカップを持ち上げた。ああして笑って話を終わらせようとする顔を見ると、紬は次の言葉を選んでしまう。これ以上説明すれば、朝からわざわざけんかを仕掛けるのは自分のほうになる気がした。

「今日は打ち合わせで遅くなるから、お昼は先に食べてて」

「私、今週は少し休んじゃだめかな?」

直人がカップを置いた。

「どこか具合悪いの?」

「そうじゃなくて。自分のを少しやってみたくて」

「自分の作品?」

「前に描いてた短い話。いくつかたまったから」

「今?」

彼が時計を見たので、紬もそちらを見た。約束の時間に遅れているわけではなかった。まだ30分もある。

「今のシーズンが終わってからでもいいだろ」

「シーズンが終わったら単行本の修正があるじゃない」

「それはそんなに量ないよ」

前にも同じ答えを聞いた。量が多くないと言われた修正に3週間かかり、終わると次のシーズンの予告編を作った。紬はそう言おうとして、カップに残った水を見た。直人はもうコートを手に取っていた。

「帰ってからまた話そう」

ドアが閉まった後、紬は彼のカップを片づけた。プリンを冷蔵庫に入れながら賞味期限を確かめる。蓋の小さな文字がよく見えず、キッチンの明かりをもう1つつけた。

初めて彼が買ってくれたプリンは、一晩放っておかれたりしなかった。

あの頃はお互いの分を奪って食べようと、プラスチックのスプーンを手にふざけ合った。

結婚して2か月ほどたった頃だった。

2人の住んでいた家には、机を並べる場所がなかった。直人が机を使えば、紬は低い食卓で絵を描き、食事のたびに紙とペンを窓辺へ移した。

直人はデビュー短編で注目を集め、初めての長編を準備していた。契約の話が出てから、かえって作業は進まなくなった。きれいに描けた絵を消し、たばこを吸いに出て、戻るとまた同じ顔を描いた。

「顔はうまく描けてるのに」

紬が机の後ろから言うと、彼は笑いもせず答えた。

「顔しかないだろ」

画面には整った顔立ちの男が立っていた。どこから来たのか、誰を待っているのかもわからない男だった。紬は隣に座る椅子を探し、ベッドの端に腰を下ろした。

「今日はもうやめよう。一緒に何か食べようよ」

「契約、なくなるかもしれない」

「まだ決まったわけじゃないでしょう」

「向こうが待つのにも限界があるよ。もう2回も延ばしてもらってる」

紬は膝の上で手を重ねた。自分に手伝えることを見つけたかった。話を1つ切り出しかけたが、今そんな助言をされても、かえってつらいだろうと思い、のみ込んだ。

直人が先に紬のスケッチブックを指した。

「何をそんなに描いてるの?」

「ただ、思いついたもの」

「見てもいい?」

紬は食卓からスケッチブックを持ってきた。人物紹介も企画意図もなく、思いつくたびに短く描いた場面ばかりだった。バスの中で見かけた子ども、雨が降るとビニールをかける市場の屋台、いつも遅くまで明かりの消えないクリーニング店が、それぞれ別の紙に描かれている。

直人は1枚ずつめくり始めた。彼が長く手を止めたページで、紬は思わず手を伸ばした。

「それ、まだ続きがないの」

「続きがないとだめ?」

「え?」

「このままでもいいよ。ここで切れるから、次を考えたくなる」

彼は紙の一角をとんと指でたたいた。紬が何気なく描いて、消そうと思っていた部分だった。1人で見ているときには何とも思わなかった絵が、彼の指の下で少し違うものに見えた。

「どうしてこういうの、公開しないの?」

「描き終わったものがないから」

「前にもそう言ってた」

その言葉に紬は笑った。付き合っていた頃、直人は紬が短編を投稿していたアカウントをフォローした。新しい絵が上がると自分にも通知が来るからと、ほかの人のコメントがつくより先に、必ずメッセージを送ってきた。

今日のは3コマ目がよかった。

前のコマにいた人が振り返ると、また違った感じがする。

この人、また出てくる?

どこがよかったのかを言ってくれる人だった。紬はその質問に答えようと、いつもより1枚多く描くこともあった。

直人がスマートフォンを差し出した。古いフォロー一覧に、水凪の名前が表示されていた。

「今も待ってる読者がいるよ」

紬が彼を見ると、直人は自分を指さした。プリンの蓋を指で押さえたまま肩をすくめる姿がおかしくて、紬もとうとう笑ってしまった。

その夜、直人は紬のスケッチブックを机の横に置いた。何度も振り返っては、見てもいいかと許しを求めるように顔を上げるので、紬はうなずいた。

長編の最初の提案は、そこから始まった。

紬は自分が集めていた話をつなげてみた。短い場面にしかいなかった人物に、暮らす町と古い友人を与え、2人が一緒に座る家を描いた。明け方まで1枚を直し、翌日、その続きを描いた。

直人は隣で絵を見ながら言った。

「こういうふうに進めればいいんだな」

数日後、担当者から返事が来た。この企画で一度会いたいという。直人はようやく大きく息を吐き、紬を抱きしめた。

「本当にもう終わりだと思った」

紬は彼の背中に手を置いた。よかった、よかったねと、そんな言葉ばかり何度も繰り返した。彼がもう一度自分の絵の前に座れるなら、少し手伝うことくらい何でもなかった。

ところが、顔合わせを前にファイルを整理していた直人の手が止まった。

「これ、どう説明したらいいんだろう」

「私が一緒にやったって言えばいいじゃない」

「契約するのは俺って話になってるから。今になって作者が変わるって言ったら、最初から見直さなきゃいけないかもしれない」

紬は紙をまとめていた。直人は担当者に送るメールを何度も書き直し、紬の名前を入れた文を消しては、また書いた。彼のデビュー作を好きだった人たちや、次の作品を待っているというコメントが、紬の頭に浮かんだ。

「今回はあなたの名前で出して」

口にすると、思っていたより簡単に聞こえた。

直人はすぐには答えなかった。紬は言葉を足した。

「あなたがまた描けるようになるまでだけ。私が隣で手伝うから」

「紬」

「その代わり、私のも見てね。いつも最後まで描けないから」

彼はうなずいた。紬の紙を受け取りながら、その手の甲を一度なでた。

「もちろん。次は君のをやろう」

紬はその約束を信じた。あの頃は、自分の作品を作るという言葉の中に、直人が隣に座っている姿も含まれていた。

冷蔵庫が低くうなった。紬は開いた扉を閉め、食卓の下に転がったプリンのスプーンを拾った。持ち手を包むビニールはそのままだった。使わなかったスプーンを引き出しに入れながら、古い資料をまだ持っていたかと考えた。

仕事部屋の一番下の棚に、小さな外付けドライブがあった。ケーブルをつなぐと、以前のパソコンから移しておいたフォルダーが現れた。卒業制作、結婚式の写真、引っ越す前の家の写真。整理する時間がなく、日付だけつけておいたフォルダーも多い。

紬は初めて企画書を作った年のフォルダーを開いた。中には直人が使っていたファイル名と、紬が使っていたファイル名が混ざっていた。同じ話の冒頭を少しずつ違うように描いたコピーもある。

1つを開くと、絵より先に当時のメモが見えた。

ドアが閉まる音は次のコマに。

顔より先に手。

今も好きな流れだった。紬はモニターを近くに引き寄せた。10年前の自分がどこで迷い、何を削りたかったのか思い出せた。あの頃は物足りなく見えた線も、今見ると必ず消さなければならないものではなかった。

昼に直人から電話が来た。

「ご飯、食べた?」

「これから食べるところ」

「さっきやりたいって言ってたの、どのくらいかかるんだ?」

紬は開いたファイルから目を離さなかった。

「そんなに長くはかからないよ。短い絵だから」

「じゃあ、空いた時間にやればいいな」

「あなたの原稿と重ならない時間を決めたいの」

「会社に勤めてるわけでもないのに、そこまで決めなくたって。そのときどきで合わせればいいだろ」

紬はマウスから手を離した。

「最初は、少しの間だけ手伝うって約束だったよね」

受話口の向こうが少し静かになった。周りの話し声が遠ざかった。直人が場所を移したらしい。

「今さら、どうしてそんな話をするんだ?」

「そんな話じゃなくて、私も……」

「俺たち、他人じゃないだろ? 俺が外で仕事をして、君は家で一緒に作ってる。今までそれでうまくやってきたのに、急に少しの間だなんて言われても、俺もどう受け止めたらいいかわからないよ」

彼の声は大きくならなかった。だから紬も小さな声で言った。

「うまくやれてるのか、わからなくて」

「また考えすぎだよ」

直人は夜に話そうと言って電話を切った。紬はしばらくスマートフォンを置けなかった。同じ言葉を2度聞いたのに、夜になればちゃんと話せるような気がした。

画面には最初に提案した原稿が表示されていた。表紙の下へ少し送ると、文字の部分を覆う白い帯が見えた。当時は紙の色と同じだったはずだが、画面を変えた今は、縁がかすかに見分けられた。

紬はそれを消さなかった。

拡大して眺め、修正しないままファイルを閉じた。

フォルダーには日付が残っていた。また描けるようになるまでと言った年だった。

フォルダーのウィンドウを閉じても、紬は食卓へ向かえなかった。夜にまた話そうと言った直人の声が耳に残っている。

また描けるようになるまで。その約束をしてから、もう10年がたっていた。

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